ルネ音響事業部 胸がつまる熱い思いをプロデュース 松山市花園町
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ファッションルームルネ
 
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★イベントの仕事を始めることになったきっかけを綴ってみることに
 

 ▼2004、5年ころまではイベントの仕事をするなんて思ってもみなかった。きっかけは2001年頃からオールディーズのバンドも出演するルネのお店主催のダンスパーティーを始めて何度目かの時から、音響機材が必要になってきてから。 プロに頼めばいいものを「自分でやろう!」と思い立ったのは、もともとと身体の芯のところに火種はあったのだろうとおもう。そのあたりを振り返ってみた。

 

 ▼ピアノは中学1年の時に習いたくて、友達と2人で行くことになっていた最初のレッスン日に親に勉強に差し支えるとか体のいい理由で止められて、希望が叶えられなかった。その後ピアノのことは忘れていたのだけど、30歳ころになって思い出して、そのトラウマを癒すようにエレクトーンを習い始めた。居相町の、子どもさんが9人もいた学校の先生が運営していたヤマハの音楽教室の一部屋で、女の先生を期待していたのだけど、クラリネットが得意な男の先生だった。でもその先生とウマがあってレッスンを楽しみに通っていたが、一年もしないうちに、奥さんも子どももいるのに「東京の音楽大学に行く、もう一度きちんと音楽を学びたい」と言い残して、家族で東京へ行ってしまった。アルバイトをして生活すると言っていた。そのことで糸がきれたようにすっかりキーボードの世界から離れてしまった。あの先生はいま頃どうしているのだろうかと、時々思い出す。
 
  ▼高校の時ブラスバンド部員が吹いてたサックスの音にあこがれるも入部する勇気はなかった。学校では放送部と演劇部とアマチュア無線部に所属していた。アマチュア無線部では学校として免許を取ったり屋上にアンテナを張ったりしていたけど、今になって振り返ってみても回りで一緒にやっていた人たちの顔も名前も浮かんでこない。自宅では無線仲間と夜中まで話して無線機を抱いて眠る日々だった。高校の時は、放送部でお昼の時間にクラシック音楽を流す業務(?)をしていたのだけど、一度ロックっぽいポップスを流したらたちまち叱られた。

 ▼高校の運動会の音楽・放送は放送部の担当で、僕は3年間いつも放送席に座っていて競技に一度も出演しなかったように思う。一度、後片付けの時、校舎から長いケーブルで電源を取って運動場まで引っ張っていたその元の電源コンセントをはずしてから、運動場でテーブルタップをばらしていたら、だれかが親切にもコンセントを電源にさしてしまって、裸足で運動場にいたから、もろに感電して目の前が真っ暗になって身動きがとれなくなったことがあった。隣にいた同級生がはずしてくれなかったらたぶん僕はこの世にいない。こんなことも含めて、高校生活のあいだはあまりいいことがなかったように思う。たぶん自分もはた目には暗くて「変なヤツ」だったのかもしれない。

 

 ▼一年浪人して大学に入学。暗い生活から一転して開放されたせいもあってか、大学の勉強はほとんどしなくて、もっぱらESSの連中とクラブ活動に励んでいた。卒業後、愛媛に帰ってきてからは、マスコミ関係に就職したもののその傍らで、8080、4040のマイクロコンピュータを組み立てたり、プログラムを組んだり回路設計のアルバイトをしたり、パソコン通信をしたり、アメリカのコンピュサーブまで国際データ回線経由で接続してたり、大学のアカウントでホームページを作ったり、愛媛では横浜のIIJまで繋いだ商用最初のダイアルアップユーザーでもあったインターネットと、それぞれ黎明期から時代の波に乗って公私ともにかかわってきた。

  ▼音響の世界は中学・高校の放送部が原点だと思う。本当はアナウンサーだったりディレクターだったりを思い描いていたわけだけど、いつの頃からか機材の方に興味を持つようになっていった。放送部の顧問の先生が「宮本くん(私のこと)がやってくれるようになってから、スッと一発で音がでるようになったよ、これまでは、線のつなぎがうまくいかなくて音が出るまでなかなか苦労してたんよ」と言っていたのを思い出す。少し調子に乗って、運動会には校内にあるスピーカーをかき集めてきて2階の校舎の柱に縛りつけて、大音量で鳴らしていたら、まわりの民家の人たちからクレームの電話がいっぱいかかってきて先生に叱られたりした。

  ▼それより前の小学校6年の頃に、町内会の役員をしていた母親に、「ラジオ体操の音楽をみんなによく聞こえるようにして」と夏休みの前に言われて、よく解らないままに、当時の真空管ラジオのスピーカーをはずして、木の枝に縛り付けてラジオに接続して鳴らしたのが最初のPAのお仕事だったのかもしれない。

  ▼高校2年の時だったと思うけど、季節は忘れてしまったが、宇和島市の公会堂(今の市民会館)で、ボニージャックスのコンサートがあった。 放送部の先生から自宅まで電話があって、「公会堂で明日コンサートがあるんやけど、音響できる人がおらんらしいんやけど行ってあげて」といわれて、右も左もよくわからんかったけど、ステージの隅の方で、汗かいてミキサーをさわることとなった。僕がマイクスタンドを一本コードに足をひっかけて倒してしまい、ゴ〜ンという爆音を一度出してしまったが、ボニージャックスの人たちに「大丈夫、大丈夫」と親切に言ってもらってすごくありがたかった。おおむね無事にコンサートが終わって、なにか達成感いっぱいのいい気分で夜遅く帰った記憶がある。
 

 

 ▼ルネのお店は婦人服のお店。社交ダンスのドレスのお店。最近はフラダンスのドレスやレイなども扱うようになっている。 お店のお客さんが、「パーティードレスやかっこいい服を買っても着ていくところがないわよ」と言われることがあって、それならば、ドレスアップして参加できるパーティーをしようということで、かなり昔からパーティーを開いていたが、それも4、5回続いたところで長く中断をしていた。

 ▼ピアノバーをやっている奥方の同級生が音楽が好きでピアノも上手。地元のアーティストをお店に呼んでライブをしたり、クリスマスにはホテルでその一年の集大成のようなパーティーをやっている。そのクリスマスパーティーに最初に行った時、オールディーズブームの名残もあってものすごく盛り上がってみんなディスコを踊って楽しんでいた。その帰り道に奥方と顔を見合わせ「こんなパーティーをしよう!」と言葉が重なった。わくわくパーティーの最初はそれから、なにもないところから意気込みだけで準備をはじめて1ヶ月半くらいで第1回のわくわくパーティー開催となったのだった。このときは、東京第一ホテルで、250名を超える参加をいただきました。これが、2001年の話。以降毎年開催し、2013年まで続いている。

 ▼回を重ねるうちに、バンドさんも幾つか入れ替わって、最初はバンドさんが持っているPA機材でやってもらっていたのだけど、PAが必要というバンドさんもあって、それまで音響関係はアマチュアの方にお願いしていたのだけど、バンドのPAとなるとお願いできるところを当時は知らなかったのと聞いた話では仕事として依頼するとかなり高額という話だったので、それならば自分でやりましょうと、スピーカーやらアンプやらを集めだしたのが始まり。一番最初は楽器や音響機材を扱うお店(ウエスト)に行って、「スピーカー貸してもらえませんか」と言ったのを覚えている。「人と一緒なら貸しましょう・・」という煮え切らない返事に、どういう意味やろかと考えた。そういったところからなので、音響に関してはほとんど独学。だけど仕事でかかわった同業の音響屋さんに教えてもらったことは多く感謝している。

 ▼もう一つきっかけをもらったのがカラオケの先生。少し音響機材がそろってきた頃に、プロの音響屋さんがやっていたカラオケ大会の音響をかわりにやってくれという話が舞い込んできた。当時は、自分のキャパを超えていたにもかかわらず無謀にも引き受けたというか無理やり引き受けさせられた。それが結果的に機材も増え、音のスキルも勉強になり、今の形への弾みとなった。昨年(2008年)は県文サブホールでカラオケ大会を開催。同業の人にも機材を借りたりしてお世話になったが、無事開催でき、広い会場での音響も少しわかってきた。まだまだ修行中だけど、ひところに比べるとずいぶん慣れてきた。今年は機材も含めて全部自前でできそうだ。だいぶん遠回りしたような気もするけど、なんか変な運命。
 

 
 ▼わたし以上に年配の方が、公民館活動やらサークルのイベントの時の音響をボランティアでされているのを見かけたり、そんなお話を聞いたりする。ハワイに行っている知り合いの人からも、教会や地域でのイベントには必ずボランティアの人たちが結構本格的にPAやっていますよ、という話も聞いたりする。なので、地域のボランティア系イベントで音響が必要な場合は、協力させていただきますので、お声がけくださいませ。
 
最後までお読みいただきありがとうございました。          ---宮本英明 
 
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